皆さんは、東ティモールという国を知っていますか?
東ティモールと言えば、テレビやインターネットで取り上げられるように
・ポルトガルの植民地だった
・インドネシアと紛争していた
・アジアの途上国
このようなイメージが先行するかもしれませんね。
東ティモールは、東南アジアにある四国ほどの大きさの島国です。日本との時差はありません。
2002年に独立を果たした「アジアでもっとも若い国」と言われていますが、その歴史はとても複雑です。
実は、下記のように、多くの国との関わりがあるのをご存知の方は少ないのではないでしょうか?
・中国の文献に国名が登場している
・日本軍が占領していた時期もある
・オーストラリアと石油争いをしている
そこで今回は、東ティモールの歴史を正しく理解するために、植民地時代(16世紀)から紛争時代、そして独立までの軌跡を詳しくご紹介します。
東ティモールの基本情報
東ティモールの歴史をたどる前に、まずは、東ティモールの基本情報を知っておきましょう。
東ティモールの位置|日本との時差は0
東ティモールと日本の間には、時差がありません。
日本の沖縄県からまっすぐ南へ約3,950km行った所に位置する「ティモール島」の東半分と、島の西側にある飛び地オエクシ、アタウロ島、ジャコ島で構成されています。
ティモール島の西側はインドネシア領です。
島の南方には、ティモール海を挟んで、オーストラリア大陸があります。
▼Google Mapで位置をチェック
東ティモールの大きさ|四国より一回り小さいサイズ
東ティモールの国土は、15,007km²(2019年11月現在)です。
ちょうど、四国(18,800 km²)よりも一回り小さなサイズです。
東ティモールの気候|乾季と雨季の2シーズン
赤道に近い東ティモールは、「熱帯モンスーン気候」に属しています。
一年における気温は30度ほどで、乾季(4~10月)と雨季(11~3月)に分かれます。
雨季の最中には、スコールに見舞われることも少なくありません。山々は新緑に染まって美しいのですが、地崩れのリスクも高まるので、長距離の移動には注意が必要です。
東ティモールの人口|子どもの数が多い
東ティモールの人口は、1,347,383人(2019年4月現在)とされています。
うち首都ディリには、234,000人が住んでいると言われていますが、人口ピラミッドを見てみると、子どもの数が非常に多いことがわかるでしょう。
東ティモールに住んでいる民族の大半は、メラネシア系(モンゴロイド系とオーストラロイド系との混血民族)です。 その他、華僑やインド系移民、ポルトガル人とメラネシア人の血を受け継ぐ人々も暮らしています。
▼ 東ティモールの子どもたち
東ティモールの宗教|99%がカトリック教徒
東ティモール人は、敬虔なキリスト教徒が大半を占めます。
99%がキリスト教徒(主にカトリック信者)、1%がイスラム教徒と言われています。
なぜ、クリスチャンが多いのかは、次章で説明する東ティモールの歴史を見れば、明らかになるはずです。
東ティモールの主要産業|コーヒーの栽培が有名
東ティモールの主な産業の一つが、コーヒーです。
国土の60%以上が山岳地帯であったり、高地が多いことから、コーヒーの生産に適しています。
その質も高く、日本スペシャルティコーヒー協会(SCAJ)が認定する「スペシャルティコーヒー」の販売をしているカフェがあるほど。
しかし、東ティモールでは元よりコーヒー栽培が盛んだったわけではありません。この産業も、次章で解説していく国の歴史と大きく関与しています。
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東ティモールの歴史|植民地時代〜独立回復までの変遷
東ティモールの基本情報を理解したところで、いよいよ、その歴史を辿っていきましょう。
本章では、下記3つの時期に分けて、説明をしていきます。
2. ポルトガル植民地時代
3. インドネシア占領時代
4. 独立後〜現代|東ティモールの挑戦
1. ポルトガル入植以前(紀元前〜16世紀序盤)

伝統的な衣装をまとった東ティモールの人々(参考:Timor Adventures)
東ティモールと言えば、ポルトガル植民地時代が有名ですが、その歴史が語られるのは、紀元前2000年頃まで遡ります。
この頃、パプア系語族が、ティモール島東部へ移住してきたとされています。
紀元前3000年頃と紀元前2000年頃には、2度に分かれて、インド=マレー系エスニックグループが、またその後、10世紀頃にはオーストロネシア語族も移住して来たと伝えられています。
東ティモールは、れっきとした移民島でした。

諸蕃志(参考:wikipedia)
ティモールの名は、13世紀初頭より、「諸蕃志(しょばんし)」(趙汝活 1225)と言う、中国の文献にも登場します。
ティモール島は白檀(びゃくだん)の産地として報告され、福建や広東からの商人が、交易のため定期的にこの島を訪れていたそうです。
14世紀に書かれた『島夷誌略』(汪大淵 1349)によると、当時のティモール島は山に白檀のみが繁っていたとも言われています。
残念ながら、次に続くポルトガル植民地時代にほとんどの白檀が伐採されてしまい、現在のティモール島では滅多に見られないものとなってしまいました。
2. ポルトガル植民地時代
1515年〜|ポルトガルによる植民地支配の開始
1515年、東ティモールにおけるポルトガル支配が始まります。
発端は、ポルトガルがティモール島を植民地支配するために、カトリック修道士を送ったことでした。
リファウ(現在の東ティモール・オエクシ県)に上陸した修道士は、同地でカトリックの布教活動を開始。そのため今でも、東ティモールでほとんどの人々が、カトリックを信仰しています。
また、ポルトガルの総督によりコーヒーの苗が持ち込まれ、本格的な栽培が始まったのもこの頃でした。
東ティモールにおいてコーヒーが有名産業の一つであるには、こうした歴史的背景があるのです。
その後、オランダがティモール島西部の領有権を要求し、ポルトガルとオランダの両国によるティモール島争奪戦が起こりました。
1859年〜|西ティモールとの国境線が確定

ポルトガル軍のパレード(参考:Timor Adventure)
ポルトガルとオランダの2国間闘争の末、1859年に、西ティモールがオランダに割譲されます。これによりティモール島は東西に分割し、1914年には正式に国境線が確定されました。
この際に、西部に位置するオエクシは、ポルトガル領ティモールの一部として残りました。
つまり東ティモールは、ポルトガルが最初に足を踏み入れた1515年から実に300年以上も、ポルトガルの占領下にあったと言えます。
1942〜1945年|日本による東ティモール支配
第二次世界大戦中の1942年2月20日、日本軍が対オーストラリアの最前線として、ティモール島を占領しました。
日本兵による東ティモール統治は、決して明るいものではなかったと言います。
1945年、日本の敗戦によって日本軍は島から撤退し、ポルトガルによる支配が復活しました。
1949年〜|列強による油田搾取
1949年、オランダ領だった西ティモールは、インドネシアの一部として独立します。
それに影響され、ポルトガル領ティモールの人々の独立志向も高まりましたが、ポルトガルによって抑圧されてしまいました。
その後1970年頃までには、ティモール島南側のティモール海に眠る「海底油田」のことが国際的に知られるようになりました。当然、周辺植民地の宗主国が黙っているわけがありません。
1972年には、オーストラリアとインドネシアが、ポルトガルが参加を拒否する間に、ティモール海の海底領域確定条約に署名を交わすこととなりました。
1974年〜|脆弱化していくポルトガル支配
1974年、ポルトガルでカーネーション革命が起こり、今まで植民地の維持を強く主張していた保守独裁体制が崩壊しました。
これを機に、ポルトガル領ティモールでも独立への動きが加速。混沌とした時期を迎えます。
ポルトガル政府による支配力が低下したこの時期、以下3つの政党がそれぞれの主張のもとに旗揚げを行い、激しい主導権争いが発生しました。
1. ティモール社会民主協会(ASDT、後の東ティモール独立革命戦線 FRETILIN(フレティリン))
即時、完全独立を要求したグループです。

画像出典:wikipedia
2. ポルトガルとの関係維持のティモール民主同盟 (UDT)

画像出典:wikipedia
3. インドネシアとの統合を主張するアポデティ

画像出展:crwflags
なお隣国インドネシアは東ティモールの領有権を主張し、反フレティリンの右派勢力(東ティモールの独立反対派)と手を組むことで東ティモールへの介入を強化していきました。
3. インドネシア占領時代
インドネシア軍が東ティモールの右派勢力と連携し、西ティモールから侵攻を行う中、1975年11月28日、フレティリンのフランシスコ・シャビエル・ド・アマラルが初代大統領として東ティモール民主共和国の独立宣言を行っています。
しかし、翌月には無残にも、インドネシア軍が全面侵略を開始することとなりました。
1976年〜
1976年7月、インドネシア政府は「東ティモールを27番目の州とする」との併合宣言を行います。
この際、国連総会ではこの侵攻と占領を非難する決議が採択されました。 しかしアメリカや日本などの西側の有力諸国は、反共産主義の立場を取るインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認したのです。
またオーストラリアは公式にこの併合を認め、この後、石油や天然ガスの眠るティモール海の海洋境界線はオーストラリアにとって非常に有利に引かれたのでした。

「山岳部で待機する独立派ゲリラの兵士たち」(綿井 健陽Web Journal公式サイトより)
勢いを増したインドネシアのスハルト政権は、東ティモールの抵抗運動に対して激しい弾圧を続け、多くの人が殺戮や飢餓によって命を落としました。
国民の4分の1〜3分の1が、亡くなったとも言われています。
それでも、フレティリン党の軍事組織である東ティモール民族解放軍(ファリンティル)はゲリラとして抵抗運動を続け、1980年代には彼らを支える地下活動が一般の人々の間に広がり、独立を目指した活動を続けていきました。
1991年|サンタクルス虐殺事件

サンタクルス虐殺事件の現場となった墓地(2019年現在)
インドネシア占領時代に起こった虐殺は、枚挙にいとまがありません。
中でも最も代表的な事件が、1991年に起こったサンタクルス虐殺事件でしょう。
墓地に集まっていた平和的な東ティモールのデモ隊400人近くが、インドネシア軍による突然の無差別発砲により虐殺された事件です。
この一件はたちまち世界的に報じられ、以降、海外諸国から東ティモールへの独立運動を支援する連帯活動が活発化しました。
これを受けたインドネシア政府は、東ティモールの民族抵抗革命評議会(CRRN)議長シャナナ・グスマン氏を逮捕し、抵抗運動を抑え込もうと試みます。しかしシャナナは獄中からも抵抗運動を続け、服役中も国連代表やネルソン・マンデラをはじめとする要人の訪問を度々受けました。

若かりし頃のシャナナ(参考:wikipedia)
この時代は、シャナナ氏以外にも東ティモールの独立運動に大きく貢献した人物がいますので、ご紹介します。
1996年12月にノーベル平和賞を受賞した、東ティモール人のシメネス・ベロ司教と、独立運動家ラモス・ホルタの2人です。
国際社会での認知度が高まり始めた東ティモールでは、インドネシア軍との戦いが続く波乱の状態にあっても、このような活動家たちへの注目を確実に浴びるようになっていきました。
1998年|スハルト政権崩壊による東ティモール独立回復の兆し
東ティモールに独立回復の兆しが見え始めたのは、1998年に入ってからのこと。
インドネシアでの民主化運動によって、スハルト政権が崩壊したことが理由でした。
新しく就任したハビビ大統領は、東ティモールへの特別自治権の付与を問う住民投票(独立の是非を問う投票)を実施することを旧宗主国ポルトガルと合意。
これにより、翌年の住民投票が実現することとなりました。
1999年|国の独立を決定づけた住民投票
1999年8月30日、国連管理下で、東ティモールの独立を問う住民投票が行われました。
その投票率は、実に98.6%でした。
投票結果は、自治拒否が78.5%。
特別自治権提案が拒否された事で、事実上、独立が決定となった瞬間です。
一方でこの結果を知ったインドネシア治安当局は、東ティモールに非常事態宣言を発令しました。
インドネシア国軍を5,500人増兵し、インドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使い、破壊と虐殺を行ったのです。
この際に、多くの人が西ティモールへ難民として逃れ、その中には強制的に連れて行かれた人もいました。
結果的に、東ティモールに国連平和維持軍が派遣されることで、暴力行動は収束しています。(同年10月には国際連合東ティモール暫定行政機構 (UNTAET) が設立され、2002年の独立まで東ティモールを率いました)
2001年|東ティモール共和国初の政権誕生
独立政権に欠かせないのは、新しい憲法の制定です。
2001年8月30日には、東ティモール建国後の制憲議会議員を選出するための制憲議会選挙が行われ、フレティリンが圧勝しました。
大統領にはシャナナ・グスマン、首相にはマリ・アルカティリが選出されました。
4. 独立後〜現代|東ティモールの挑戦
2002年5月20日に独立式典が行われ、東ティモールは21世紀最初の独立国として新たに歩み始めました。
国連は、国際連合東ティモール支援団 (UNMISET) を設立。独立後の国造りの支援を行いました。
しかし、未来への光が見えたその矢先、再び悲劇が起こります。
2006年|ストライキ騒動による国内戦闘
2006年4月、東ティモール西部出身の国軍兵士約600人が、「東部出身の兵士に比べて差別待遇を受けている」としてストライキを起こし、政府はストライキ参加者を全員解雇したのです。
結果、解雇を不服としたストライキ参加者が5月下旬に蜂起。国軍との間で戦闘が勃発しました。
それに呼応する形で鎮圧に赴いた警察や国軍の一部は、ストライキ参加者に同調して警察署を襲撃し、死者が出る事態まで発展。怯えた警察官が職務放棄をしてしまったことから、首都ディリの国家警察システム自体も崩壊してしまいました。
この事態を受け、東ティモールの要請で、オーストラリア、ポルトガル、マレーシア、そしてニュージーランドが国際治安部隊を派遣し、治安維持の措置が取られました。
東ティモールは独立回復を成し遂げてもなお、自走できていないことが証明された出来事でした。
2007年〜|国際機関の介入強化と政権争い
2006年のストライキが起因し、独立して間もない東ティモールへの国際機関の介入が強化されることとなります。
国連安保理は、2005年4月から行っていた統治事務所を通じた国連の関与の仕方を見直し、国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)という国連平和維持活動(PKO)を設置し、治安維持やガバナンス強化などを支援することが決定されました。
この活動により治安は回復し、2007年には、東ティモール政府が初めて実施主体となる大統領選挙と国民議会選挙が平穏に行われ、ラモス・ホルタ氏が第2代大統領に就任しました。
(※この国民議会選挙では、前大統領シャナナ・グスマン氏が結成した東ティモール再建国民会議(CNRT)が18議席を獲得し、フレティリンはかろうじて第1党の座を守りましたが、65議席中21議席と、大幅に議席を減らし、過半数を取ることはできませんでした。)
また、2007年からはティモール海での原油採掘に伴う税収やロイヤルティー収入が計上され、2005年に東ティモール政府が設立した「石油基金」を利用して国家予算が計上できるようになっていました。(2017年末時点での積立総額は約168億米ドル)
この頃から、政党を巡った不穏な動きが顕著に見られるようになります。

シャナナ(左)とラモス(右)(参考:ABC News)
当時対立していた2党をまとめると、下記のようになります。
東ティモール再建国民会議(CNRT)
代表者:シャナナ・グスマン
VS
東ティモール独立革命戦線(フレティリン)
代表者:ラモス・ホルタ
当選したラモス・ホルタ大統領(写真右)は、与野党による挙国一致内閣を目指し、CNRT率いる野党連合とフレティリンは論争を繰り返しました。
しかし、合意には至らず、2007年8月にフレティリンは与党から下野し、シャナナ・グスマンが首相に就任します。
これを不服としたフレティリン支持者の一部が暴徒化し、民家などへの放火や投石が多発し、地方では子供が暴動に巻き込まれ死亡する事態へと発展しました。
8月12日には国連警察や、東ティモール警察、多国籍治安部隊などの働きによって、暴動は沈静化されましたが、この数日の間に100人以上の逮捕者が出たとも言われています。
独立回復を果たして平和の兆しが見えたにも関わらず、東ティモール国内の動乱は治るどころか、過激化の一方を辿ったわけです。
翌年、2008年2月11日には、ラモス・ホルタ大統領とシャナナ・グスマン首相が、反政府武装集団に襲撃を受けた事件も起こっています。ラモス氏の方が重傷を負いましたが、オーストラリアの病院での治療の甲斐あって一命を取り留め、2ヶ月後には職務に復帰を果たしました。
なお、2009年5月には国連警察から東ティモール国家警察への警察権の移譲が開始され、2011年3月には全国13県で権限移譲が完了しています。
2012年〜|平穏への移行
2012年3〜7月にかけて行われた大統領選挙と国民議会選挙は、平和裏に実施されました。
大統領には、東ティモール民族解放軍の司令官として独立闘争を戦った「英雄」の一人、タウル・マタン・ルアク氏が選ばれました。
この国民議会選挙では、CNRTとフレティリンのどちらがより多くの議席を獲得するかが焦点となり、結果としてはCNRTが30議席を獲得し第1党になり、前回第1党だったフレティリンは25議席で第2党となりました。
また、2006年8月から東ティモールにて平和維持活動を行っていた国際連合東ティモール統合ミッション(UNMIT)は、2012年12月末にその活動を終え、東ティモールから撤収しました。
2017年〜|新立憲政府の誕生
2017年3月20日、フレティリンの党首を務めていたフランシスコ・グテレス氏(通称ル・オロ)が大統領選で初当選し、大統領に就任しました。

フランシスコ・グテレス氏(参考:wikipedia)
同年7月には国民議会議員選挙も実施され、9月15日にマリ・アルカティリ新首相率いる第7次立憲政府が発足しました。
しかし、与党であるフレティリンは議席の過半数を獲得することが出来ず、議会で多数派の野党連合は同政府に対して予算案を通さない等の圧力をかけました。
それを受けて、2018年1月26日にル・オロ大統領は国民議会の解散を発表。同年5月12日の国民議会選挙を実施し、その結果、野党連合であるAMPが過半数を獲得し、6月22日にタウル・マタン・ルアク前大統領(PLP党首)を新首相とする第8次立憲政府が発足しました。
【コラム】東ティモール沖油田問題について
東ティモールにとっての国家収入源の一つに、石油があります。
ティモール島とオーストラリアの間にある「ティモール・ギャップ」と呼ばれるエリアにおいて、両政府間でのにらめっこが続いていました。
しかしついに2018年3月、ニューヨークの国連本部にて、オーストラリアと東ティモールが両国の海上国境を定める「オーストラリア・東ティモール間のティモール海における海上の国境の設定に係る条約」を調印しました。
両国の国境線が定められるのは、これが初めての事です。
この結果、ティモール海上の両国の国境をまたぐことになるグレイターサンライズ・ガス田については、特別な制度を設けてガス田開発で得られる収入を両国に配分する比率等を取り決めました。
現在生産中のバユ・ウンダン・ガス田については東ティモール領海に属することになっています。
これまでの海上国境線は、インドネシアとオーストラリアが取り決めた位置に引かれており、国連海洋法条約に沿っておらず、資源獲得の面においても東ティモールにとって不利なものでした。
これが見直されたことは東ティモールにとって大きな一歩でした。
まとめ|アジアで一番若い国、東ティモール
以上、東ティモールの歴史をご紹介しました。
ボリューム満点の内容でしたが、いかがでしたでしょうか?
日本が関わった歴史もあり、意外に思われた方も多いかと思います。
かつて日本が、第二次世界大戦時の侵略と、事実上インドネシアからの独立を否認することで、東ティモールにおける紛争を深刻化また長期化させる要因の一つとなっていたことを考えると、決して他人事ではいられないと思います。
東ティモールは独立回復から17年しか経っていない、まだまだ若い国です。
それでも最近では、観光地としての魅力も増しており、海の絶景を望むダイバーやバックパッカーたちの姿も散見されるようになりました。
これからどんな国になっていくのか、楽しみですね。

もし、東ティモールへ旅行される場合は、独立までの抵抗運動についての資料が展示されている東ティモール抵抗博物館(Arquivo & Museu da Resistência Timorense)へも足を運んでみてください。
さらに詳しい情報を知ることができますよ。
本記事が少しでもお役に立てましたら幸いです。
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